昭和五十六年一月七日 朝の御理解
御理解 第六十四節 「此方は参ってたずねる所がなかった。氏子はおかげを受けて           遠路のところを参って来るが、信心して徳を受けて、身しの           ぎをするようになれ。」
 ここではこういう信心をさせて頂く、今まで気もつかなかった、ま、それこそ知らなかった。知らなかったこういう信心があったと。それを頂く事によって、的確におかげを受ける又はこういう信心をさせて頂けば、必ずお徳が受けられるというお徳を頂ける手立てがもう、間違いなく説かれておる。
 ですから問題は頂く方の側が間違いさえしなければ、絶対のおかげであり絶対のお徳を受ける事が出来るのですから、合楽は。
 毎日しかも又は、その都度その都度にね、参ってたずねる所がなかったと教祖はおっしゃるが、合楽の場合は参って、それもまあ、いうなら個人教導とでも申しましょうか、一人々に御理解下さる、又こうやって特に朝の御理解などは、もう皆さんがそうだと信じて、そうだと思うて実行したら、必ずおかげになるです。そのおかげが目に見え時と目に見えない時とあるんですけれどもね。おかげだけは間違いないです。 それがだんだん形になってくると、はあ、おかげを受けたというけれどもおかげというものは、必ずしも形の物だけじゃないですから、ここでは参って尋ねる所がなかったというのですけれども、ここではお参りをすれば、いうならば信心をこういう信心をすれば信心が進む、こういう信心をすればお徳を受ける。
 だから私がまあ、断言して大阪講演の時に申しとりますでしょうが。私の話を聞いて下さったら必ず、信心が進む。私が言う事を守られたら、必ずおかげが受けられると、今から考えるとまあ、いうなら大胆な表現だなあと思います。
 けれども、まあそれを実際信じておりますから、なら、今日あたりのような御理解頂いて参って尋ねる所がなかった。尋ねる所があるというてもですよねえ、丁度お医者さんが探りを入れるような程度のお話じゃないのです合楽の場合は。
 的確なのです、間違いないのです。だから頂く姿勢さえ本当にでけたら、絶対のおかげが受けられるおかげの世界に住む事がでける。お徳を受ける事がでけるんです。 最後にあるように、だんだん信心をしてもう身凌ぎがでけるような信心をせよとこうおっしゃる。
 お徳を受けて、身に徳を受けて身凌ぎがでける。もういちいち親先生にお尋ねせんでも、自分でさっさとこうわからせて頂けるようなお徳を受けよというておられるのです。ま、だんだん合楽でもまあその身凌ぎのでけられる方達もだんだでけて来たようですね。ですからやっぱり問題はその頂く姿勢ですね。
 おかげを受けるにしても、しかもそりゃ、そんな至難の事じゃない。難しい事じゃない。その気になりゃ誰でも実行がでける教えなんです合楽の場合。それをなかなか実行しない。わかっちゃおるけれども、そげなわけにゃいかんというような事になってきて、そしていうならば、おかげが受けられなかったり、勿論お徳なんかには触れる事も出来ないというような人も沢山ありますよ。
 昨夜、御祈念、夜の御祈念に出てまいりましたら、女の先生方殆どばっかりで、男の先生方がおりませんから尋ねたら、明日の福引のためのいろんな御用がありよるとこういうんです。はあそうの、それで又あの下がらして頂いて、まあ皆が一生懸命それこそ夜なべをやっとりますから、もうそれこそ沢山八百からの出てるんだそうですもんね、くじ引きが。あの福引です。それに一つ一つ、御理解が付くのでしょう。ですからその事をお願いさせてもらいよったら、白衣を着た、その神様だろうと思われる小さい神様達が沢山そのいろんな御用を、なさっておられるところを御神願に頂いたんです。いうなら福引をいうなら、頭でひねっておるようだけれども、頭をひねっておるような中に、神様が入って下さるんでしょうね。いろんな、なら、設備なんかしよる人達の上にでも、神様の働きのまにまにそうした準備やら設備やら又、福引やらでけておるわけです。
 もう合楽の場合絶対そうなんですから、それを信じなけれは駄目です。もうどんなに正月に頂く福引は的確だと皆が言いましょう。だからその的確であるという事も、絶対ですけれども、それを守らなければ駄目です、ね。
 こりゃもう神様が、福引を作りよんなさるとじゃから、絶対神ながらの福引が出来よるです。ですから今度は頂いた方が、なら、それを絶対ななものとして頂いて、行じていかなきゃいかんね。これはけれどもね、今日の御理解じゃないけれども、そうと大体思うておってもね、そうしてお知らせを頂かんと、はあ神様達に御苦労かけているんだなあ、修行生の方達が一生懸命やってるけれども、一生懸命やってる手先にも足先にも、いうならば頭の中、頭脳の中にも神様が入っていうなら、福引が一つ一つでけておるんだと、設備が一つ一つ整ってきておるんだと。だからその頂き方がね福引だけの事じゃない、すべての事の中にお取次を頂いての事であるから、神様がその中に入って、いうならば、一生懸命働いておって下さるのであるからお礼を申し上げなければいけない。お取次を頂いたら早速、神様の働きがはじまるといわれます。 だからお取次を願ったら早速目には見えないけれども、神様が一生懸命働きがはじまっておるのですから、御苦労かけてすみません。有難とうございますといわにゃいかん。ずうっと言うとくこつはいらんけん晩なら晩に、御祈念でんさせてもらう時にゃ、今日も御苦労かけて有難とうございますというのが、実感として出て来るようにならなけれはでけん。合楽の場合は、これは合楽の場合です。
 もう絶対に神がものを言うて下さるのです。神様が教えて下さっておる事です。
 しかもそれは間違いのない、いうならば私が実験実証して、したところを聞いて頂くのです、ね。ですからお取次頂いたらもう、その場から神様の働きが特別のはたらきがはじまるんだと、それを信じてそういう構えをもって、頂かしてもらう時にですだんだん身に徳を受けいうなら、身凌ぎがでけるような信心にもなれると思うですよね。どうぞ。
 そんなわけですから、福引をね、なんかはもう絶対のもんです。合楽の福引は各々が、ですからねそれを頂く構えをもって、例えばなんですかね、“新春合楽の宴”か何かと、まあ、そういうようなあの名称の元に福引が行われるのですけれども、こりゃ大体いうたら大変な神様の働きの、だから祝宴は祝宴であっても、合楽の宴といったような事じゃ大体適当じゃないのじゃないだろうかと、いったような事を思いました。どうぞ。